水泳
「え゛っー、う゛ぇっー、ひゅーっ、」あえて記せばこんな感じであろうか。どうやっても言葉には表せない。咳といえば「ごほん、ごほん」が相場であるが、そんな生やさしいものではない。電車に乗るとこちらを白い目で睨み付けながら周りの人はその場を去って行く。「気持ちは分かるが、こっちだって辛いんだよ、君は今だけだけど、僕は毎日ずっとなんだよ、」と心の中で叫びながら、申し訳ない気持ちで電車に乗っていた。さすがにこれではまずいと思い、職場近くの東洋医学もやっている病院に行った。通常診察のはじめは、「今日はどうされましたか?」が相場であるが、私の場合は違った。待合室で、例の調子で咳き込んでいたため、お医者さんの耳にもそれは届いていた。「大変ですね、いつからですか?」で診察は始まった。診察の結果、「中嶋さん、これは喘息です。」といわれた。ショックだった。今まで風邪を引くと決まって咳が止まらなくなったが、喘息といわれたのは初めてであった。「あのぉ、子どものころから気管が弱いといわれたことはあったんですが、喘息っていわれたのは初めてで…。」と恐る恐るいったら、「それを喘息っていうんですよ。」と返された。なるほど。
薬を処方してもらったが、薬を飲んで治ったためしがない。その後そのお医者さんがいうには、「中嶋さん、腕をぐるぐる回す運動をしてください。背筋をつけてください。そうすれば咳に負けなくなります。そうですね、水泳なんか一番いいと思いますよ。」
私のボス弁は日課として週1回必ず水泳に行っていた。夕方出かけて、2キロ泳ぎまた事務所に戻って仕事をされていた。泳いで帰ってきたときの何とも言えない爽快感あふれる顔が今でも印象に残っている。それを見て私も決意した。そうだ、水泳をやろう。
ところが私は泳げない。まったく泳げない金槌ではないが、平泳ぎでなんとか25メートル、クロールで15メートルくらい、背泳ぎは直ぐに沈んでしまい、バタフライに至っては、何であんな泳ぎ方が必要なんだと思っていたくらいで、もちろん泳いだことはない。もし私がバタフライを泳ごうとしたら、溺れていると勘違いされたであろう。
肩をぐるぐる回す運動をしなければならない身としては、平泳ぎでは駄目で、他の泳法で泳がなければならない。そこで、まずは一番ポピュラーなクロールをやることにした。しかし、せいぜい泳げて15メートル、これではまるで運動にならない。ところが世の中には親切な人がいるもんで、見知らぬおじさんが声をかけてきて、泳ぎ方を教えてくれた。よっぽどぶざまな姿だったんであろう。その人に身体の姿勢や息継ぎの仕方などを教えてもらうと、これがとっても役に立ち、たちまち泳げるようになった。25メートル、50メートル、距離はどんどん伸びていった。
私の通った中学校は水泳に厳しい学校であった。25メートル泳げないと、特訓が待っている。また、泳げる距離によって帽子の色が変わった。最初は赤。50メートル泳げるとそこに白い線が1本入る。100メートルで2本、200メートルで3本、そして300メートル泳げると帽子の色が白に変わる。泳法は何でもいい。白帽になると今度は300メートル泳げる泳法が増えるにしたがって黒線が一本ずつ入る。つまり、4泳法全部300メートル泳げると白帽に3本の黒線が入ることとなる。私もこの試験を受けた。50メートルは何とかクリアーできた。75メートルはどうにかこうにかたどり着いた。そして、100メートル。たどり着いたとき、死にそうだった。まだ、目標の3分の1しか来ていないのに。そして、100メートルのターン。壁を蹴ろうとした瞬間、このままいったら溺れて死ぬ。恐怖心が襲った。身体はこわばり、壁を蹴ることができず、私の試験はそこで終わった。結果赤帽に白線2本である。そのときの恐怖が頭から去ることはなく以後その試験を受けることはなかった。当然のことながら周りの友達はどんどん帽子の色が変わっていく。赤帽なんてかぶっているやつはいない。幸か不幸か、帽子をかぶらなくてもよかったので、私は帽子をかぶらずに水泳の授業を受け続けた。一度だけ、先生から全員帽子をかぶってくるように言われ、仕方がないから他のクラスのやつに帽子を借りた。もちろん白いやつを。先生も「中嶋は赤帽じゃないか」と気付いていたようだったが、何も言われなかった。以後、帽子をかぶれと先生が言ったことはなかった。
そうだ、せっかくだからこれに挑戦しよう。そう思った。四半世紀の時を隔てて、私の挑戦は始まった。まずは平泳ぎから。これはわりとすんなりクリアーできた。「やったぁ、白帽だ!」心の中で叫んだ。次は、クロール。これはさすがにすんなりとはいかなかった。平泳ぎはいざとなったら顔をつけずに泳げるが、クロールはそうはいかない。息継ぎがうまくいかないと苦しくなるし、腕はだるくなるし、それでも何度目かの挑戦で300メートル泳げるようになった。黒線1本である。ただ、残念ながら黒線は今のところ1本まで。
黒線3本までは、まだ少し道のりがある。
一時期は、毎週必ず2キロくらいは泳いでいたが、ここ数年はサボりまくっている。ちゃんと泳いでいるときは、まったく風邪をひかなかったが、サボるようになってから風邪をひくようになってしまった。なので、今年こそは真面目に泳ごうと思い、先日久し振りにプールに行ったのだが…
やべぇ、腕が上がらねぇ!
薬を処方してもらったが、薬を飲んで治ったためしがない。その後そのお医者さんがいうには、「中嶋さん、腕をぐるぐる回す運動をしてください。背筋をつけてください。そうすれば咳に負けなくなります。そうですね、水泳なんか一番いいと思いますよ。」
私のボス弁は日課として週1回必ず水泳に行っていた。夕方出かけて、2キロ泳ぎまた事務所に戻って仕事をされていた。泳いで帰ってきたときの何とも言えない爽快感あふれる顔が今でも印象に残っている。それを見て私も決意した。そうだ、水泳をやろう。
ところが私は泳げない。まったく泳げない金槌ではないが、平泳ぎでなんとか25メートル、クロールで15メートルくらい、背泳ぎは直ぐに沈んでしまい、バタフライに至っては、何であんな泳ぎ方が必要なんだと思っていたくらいで、もちろん泳いだことはない。もし私がバタフライを泳ごうとしたら、溺れていると勘違いされたであろう。
肩をぐるぐる回す運動をしなければならない身としては、平泳ぎでは駄目で、他の泳法で泳がなければならない。そこで、まずは一番ポピュラーなクロールをやることにした。しかし、せいぜい泳げて15メートル、これではまるで運動にならない。ところが世の中には親切な人がいるもんで、見知らぬおじさんが声をかけてきて、泳ぎ方を教えてくれた。よっぽどぶざまな姿だったんであろう。その人に身体の姿勢や息継ぎの仕方などを教えてもらうと、これがとっても役に立ち、たちまち泳げるようになった。25メートル、50メートル、距離はどんどん伸びていった。
私の通った中学校は水泳に厳しい学校であった。25メートル泳げないと、特訓が待っている。また、泳げる距離によって帽子の色が変わった。最初は赤。50メートル泳げるとそこに白い線が1本入る。100メートルで2本、200メートルで3本、そして300メートル泳げると帽子の色が白に変わる。泳法は何でもいい。白帽になると今度は300メートル泳げる泳法が増えるにしたがって黒線が一本ずつ入る。つまり、4泳法全部300メートル泳げると白帽に3本の黒線が入ることとなる。私もこの試験を受けた。50メートルは何とかクリアーできた。75メートルはどうにかこうにかたどり着いた。そして、100メートル。たどり着いたとき、死にそうだった。まだ、目標の3分の1しか来ていないのに。そして、100メートルのターン。壁を蹴ろうとした瞬間、このままいったら溺れて死ぬ。恐怖心が襲った。身体はこわばり、壁を蹴ることができず、私の試験はそこで終わった。結果赤帽に白線2本である。そのときの恐怖が頭から去ることはなく以後その試験を受けることはなかった。当然のことながら周りの友達はどんどん帽子の色が変わっていく。赤帽なんてかぶっているやつはいない。幸か不幸か、帽子をかぶらなくてもよかったので、私は帽子をかぶらずに水泳の授業を受け続けた。一度だけ、先生から全員帽子をかぶってくるように言われ、仕方がないから他のクラスのやつに帽子を借りた。もちろん白いやつを。先生も「中嶋は赤帽じゃないか」と気付いていたようだったが、何も言われなかった。以後、帽子をかぶれと先生が言ったことはなかった。
そうだ、せっかくだからこれに挑戦しよう。そう思った。四半世紀の時を隔てて、私の挑戦は始まった。まずは平泳ぎから。これはわりとすんなりクリアーできた。「やったぁ、白帽だ!」心の中で叫んだ。次は、クロール。これはさすがにすんなりとはいかなかった。平泳ぎはいざとなったら顔をつけずに泳げるが、クロールはそうはいかない。息継ぎがうまくいかないと苦しくなるし、腕はだるくなるし、それでも何度目かの挑戦で300メートル泳げるようになった。黒線1本である。ただ、残念ながら黒線は今のところ1本まで。
黒線3本までは、まだ少し道のりがある。
一時期は、毎週必ず2キロくらいは泳いでいたが、ここ数年はサボりまくっている。ちゃんと泳いでいるときは、まったく風邪をひかなかったが、サボるようになってから風邪をひくようになってしまった。なので、今年こそは真面目に泳ごうと思い、先日久し振りにプールに行ったのだが…
やべぇ、腕が上がらねぇ!